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Keiichi HayashiK1884 Research Rabbit Hole

ベーシックインカムは何を証明できたのか——実験群の総覧

半世紀に及ぶ BI 実験群を横断し、労働供給と厚生への効果、そして実験設計が構造的に測れないものを整理する。

出発点の問い

ベーシックインカム(BI)の議論は、しばしば財源論と労働倫理論の二正面で膠着する。「月 7 万円配れば年 104 兆円かかる」という粗い算術と、「働かなくなるのではないか」という直観。前者は制度設計の問題に還元できるが、後者は本来、実証の問題である。

そして BI は、社会政策としては例外的に、半世紀にわたって実験が積み重ねられてきた領域でもある。1968 年のニュージャージーから 2024 年の OpenResearch まで、ランダム化比較試験(RCT)と自然実験が数十件。にもかかわらず、論争が決着しないのはなぜか。

結論から言えば、実験は制度の一部しか照らしていない。その「照らせていない部分」がどこかを特定することが、実験群を読む最大の実益である。

第一世代——1970 年代北米の負の所得税実験

BI 実験の起点は、ミルトン・フリードマンの負の所得税(NIT)構想を、ニクソン政権期の福祉改革論議が現実の政策選択肢に押し上げたことにある。特筆すべきは、社会政策に RCT を持ち込んだこと自体が方法論史上の事件だったという点だ。

New Jersey Graduated Work Incentive Experiment(1968–72)

米国初の大規模社会実験。連邦経済機会局(OEO)資金で、ニュージャージー・ペンシルベニアの都市部低所得世帯 1,357 世帯を対象とした。保証水準(貧困線の 50/75/100/125%)と限界税率(30/50/70%)を組み合わせた複数プランを 3 年間テストしている。

当時の AFDC が実質的に父親不在世帯のみを対象としていたのに対し、NIT を二親世帯に拡張したときに何が起きるかが主眼だった。結果、夫の労働供給減少は数%程度にとどまり、「壊滅的な労働供給減は起きない」ことを示した。

SIME/DIME(Seattle/Denver, 1971–82)

NIT 実験群のなかで最大・最長。約 4,800 世帯、保証水準は 2 子夫婦世帯換算で 3,800〜5,600 ドル(貧困線の約 115%)と最も寛大で、11 の給付−税率プランに加えて訓練・カウンセリング処遇も併設された。

労働供給については、夫の労働時間が第 2 実験年で約 9% 減。就労者のフルタイム比率が有意に低下し、妻・女性世帯主ではさらに大きな減少が出た。

しかしこの実験を歴史的に有名にしたのは労働供給ではなく、離婚率である。当初分析(Hannan, Tuma, Groeneveld)は白人・黒人夫婦の婚姻解消率の上昇を報告し、1983 年最終報告は増加率を 40〜60% と記した。

ところが 1990 年、Cain & Wissoker(American Journal of Sociology 95(5))が非線形の所得・独立効果モデルで再分析し、実験群・対照群の差の大半は説明可能であり、NIT が婚姻を不安定化させるという結論には深刻な疑問があるとした。同号で Hannan & Tuma が反論しており、論争は完全には決着していない。加えて、高い保証水準はむしろ婚姻解消率を下げたという報告(Groeneveld et al. 1980)もあり、効果の方向は所得水準に依存する。

結果が政治を殺し、その結果が後に誤りとされた——政策評価と政治過程の関係を考えるうえで、これ以上の教材はない。

Gary Income Maintenance Experiment(1971–74)

インディアナ州ゲイリー、黒人世帯 1,780 世帯(59% が女性世帯主)。Moffitt(1979, Journal of Human Resources 14(4))は夫 3〜6% 減、女性世帯主 26〜30% 減、妻はほぼゼロと報告した。妻の効果がゼロなのは、鉄鋼業中心の硬直的労働市場でパートタイム機会が乏しかったためと解釈されている。労働供給効果は制度ではなく労働市場の構造に依存するという重要な示唆がここにある。

なお、この実験は Hausman & Wise(1979, Econometrica 47(2))が脱落バイアス(attrition bias)を論じた古典的研究の舞台でもある。

Mincome——飽和実験という例外

Manitoba Mincome(1974–79)は、北米 NIT 実験群のなかで決定的に異質だった。ウィニペグでの古典的ランダム化に加え、人口約 1 万のドーファン町とその周辺農村を地域まるごと対象にしたからである(saturation site)。

個人ランダム化では、受給者と非受給者が同じ労働市場に混在するため、価格・賃金・社会規範といった一般均衡効果を原理的に捉えられない。飽和設計はそれを可能にする。

政権交代で早期打ち切りとなり、データは約 30 年放置された。それを発掘したのが Evelyn Forget(2011, Canadian Public Policy 37(3))である。州の医療行政データと傾向スコアマッチング(3 対 1 対照)を用い、次を報告した。

入院率
−8.5%
事故・外傷と精神保健で顕著
高校 12 年生の継続率
増加
10代の就学延長
出生率・家族解消・出生時体重
変化なし

労働供給の減少は主に 10 代(就学延長)と母親(育児)に限られ、成年男性の稼ぎ手はほぼ不変だった。「働かなくなる」のではなく「別のことに時間を使う」という描像である。

ただし留保も必要だ。これはランダム化ではなく準実験であり、Wayne Simpson らによる再分析は、選好する仕様では Dauphin×MINCOME 項が約 5% の相対的上昇を示すなど、Forget 推定の頑健性に疑問を投げている。地域経済の交絡も排除しきれない。

別方向の発見として、Calnitsky(2016)が 1976 年のコミュニティ調査を分析し、GAI(保証年収)が従来型の福祉に比べてスティグマを大きく低減したことを示した。現金の無条件性そのものが持つ厚生効果という論点である。

現代の RCT

Finland Basic Income Experiment(2017–18)

先進国で唯一の、政府主導・法定・予算措置ずみの全国規模 RCT。Kela(社会保険庁)が失業給付受給者から 2,000 人を無作為抽出し、月 560 ユーロを無条件・非課税・資力調査なしで 2 年間支給した。対照群は母集団全体の約 173,000 人。

公式発表(2020 年 5 月)によれば、参照期間で基本所得群は対照群比で約 6 日多く就労した。初年の差はわずか 0.39 日である。一方、主観的厚生・メンタルヘルス(ストレス、抑うつ、孤独感)・経済的安心感・他者と制度への信頼は有意に改善した。

Stockton SEED(2019–21)

全米初の市長主導型の保証所得実験(Michael Tubbs 市長)。世帯所得中央値以下の地区から 125 人に月 500 ドルを 24 か月、対照群 200 人。給付は全額フィランソロピー資金である。

最も引用される結果は、フルタイム就業率が受給群で 28%(2019 年 2 月)から 40%(1 年後)へ 12 ポイント上昇したこと(対照群は 32%→37% の 5 ポイント増)。評価者の Stacia West は「金銭的欠乏が時間的欠乏を生む」と解釈した。現金が求職の余裕を作ったという理路である。

支出の内訳は食料約 37%、日用品 22%、光熱費 11%、自動車 10%。飲酒・タバコは 1% 未満だった。予期せぬ出費に対応できる割合は 25% から 52% へ改善している。

OpenResearch Unconditional Cash Study(2020–24)

Sam Altman の OpenResearch が出資した、米国最大の民間 RCT。テキサス・イリノイの低所得者 1,000 人に月 1,000 ドルを 3 年、対照群 2,000 人に月 50 ドル。登録時世帯所得は平均約 29,900 ドルなので、約 40% の所得増に相当する。

推進派にとって最も不都合な数字が出た実験であり、これを知らずに BI を語ると議論が古くなる。

コストとして現れた効果

  • 労働参加率 2.0 ポイント減、週 1.3〜1.4 時間の労働時間減
  • パートナーも同程度の労働時間減
  • 移転を除く個人所得が年約 1,500 ドル減
  • 単親サブグループでは就業 3.9 ポイント減・週 2.8 時間減と効果が大きい
  • 増えた時間の最大の用途は余暇
  • 就労の質・アメニティには効果なし

便益として現れた効果

  • 積極的求職は約 10% 増
  • 事業アイデア保有が 3 年目で約 5 ポイント増。黒人受給者では 8 ポイント増(12.5%)、実際の起業も 3 年目に 9 ポイント増(26%)
  • 総支出 +月 310 ドル。うち食料・家賃・交通で半分超
  • 他者への金銭援助 +22 ドル(26% 増=率で最大)
  • 予算作成 +5%、さらなる教育計画 +6 ポイント
  • 問題飲酒・非処方鎮痛剤使用が減少(特に男性)

健康については、1 年目にメンタルヘルスと食料安全保障が有意に改善するも、2〜3 年目に減衰した。コロナ期給付(拡充 CTC・SNAP)の失効とインフレという交絡要因があるため、解釈は慎重を要する。身体的健康には有意効果なし。

政治態度に関する論文(Broockman et al. 2024, NBER WP 33214)は、政治参加・投票・党派選好・政府信頼のいずれにも有意効果を検出せず、政治的信念は「著しく安定」と結論づけた。「経済的安定が政治的態度を変える」という素朴な期待への反証である。

Guy Standing は、対象が低所得者に限定され無条件でも普遍でもない点、およびモバイルアプリによる 24 時間時間日誌が違法・逸脱活動を捉えない点を挙げて、これを真の BI 実験とみなすべきでないと批判している。

Pilotprojekt Grundeinkommen(ドイツ, 2021–24)

DIW Berlin らによる。21〜40 歳・単身・月収 1,100〜2,600 ユーロの層から、処遇群 107 人に月 1,200 ユーロを 3 年間。約 14 万人の私的寄付が資金源で、これにより既存給付を減額しない設計が可能になった点が重要である(200 万人超の応募から選定)。

就労は減らず、いわゆる「social hammock(社会的ハンモック)」神話は否定された。給付の約 37% が貯蓄、約 7% が寄付・家族援助に回っている。査読前の DIW 討論論文はメンタルヘルス +0.306SD、人生の目的 +0.250SD、生活満足度 +0.426SD を報告した(報道値は若干異なる)。ただしサンプル 107 人という検出力の限界は忘れてはならない。

Madhya Pradesh Pilot(インド, 2011–13)

SEWA(自営女性協会)と UNICEF による、途上国側の重要実験。8 処遇村・12 対照村の約 6,000 人に、成人月 200〜300 ルピー、子ども月 100〜150 ルピーを支給した。

栄養・衛生・就学・負債削減・家畜資産で改善が見られ、労働形態は手作業から自営農・小商いへ移行した。設計上の白眉は、SEWA の村内での存在(voice 機構)との交互作用を検証する 2×2 構造を組み込んだことである。現金だけでは足りず、集合的な組織化と組み合わさったときに効果が最大化するという含意を持つ。

Ontario Basic Income Pilot(2017–19)

4,000 人、単身者最大年 16,989 カナダドル、税率 50%、総額 1.5 億ドル・3 年の予定だった。2018 年 7 月、Ford 保守党政権が公約を破って早期中止し、公式にはベースラインデータのみが残った。

事後の独立調査(McMaster/Ryerson)はメンタルヘルス・住居安定・社会関係の改善を示唆したが、これは RCT の結果ではない。エビデンスが出る前に政治が実験を殺したという点で、SIME/DIME と対をなす事例である。

自然実験——恒久性と普遍性を持つ唯一の証拠

RCT がどれほど精緻でも、期間が有限であるという構造的限界からは逃れられない。3 年で終わると分かっている給付への反応は、恒久制度への反応と異なる(恒久所得仮説)。この点を補うのが自然実験である。

Alaska Permanent Fund Dividend(1982–)

40 年以上続く、事実上唯一の恒久的・普遍的現金給付。Jones & Marinescu(2022, AEJ: Economic Policy 14(2))は CPS データと合成対照法(1977–2014)で分析し、次を報告した。

傍証として、非貿易財部門のほうが貿易財部門より雇用反応が正であることが示されている。地域内で消費されるサービスほど需要増の恩恵を受けたということだ。

Eastern Band of Cherokee のカジノ配当(1996–)

カジノ収益の 50% を部族員に均等配当する制度。一人当たり当初 500 ドルが 2001 年には 6,000 ドルとなり、家計所得の 4 分の 1 から 3 分の 1 に達した。1993 年開始の Great Smoky Mountains Study が偶然「実験前後」のパネルを提供したことで、稀有な準実験が成立した。

Akee et al.(2010, AEJ: Applied Economics 2(1))の中心的推定は明快である。最貧困世帯への年 4,000 ドルの追加は、21 歳時点の教育年数を 1 年増やし、16〜17 歳の軽犯罪を 22% 減らす。貧困率はカジノ前の約 60% から 5 年後には 25% 未満に低下した。

親は労働時間を減らしておらず、金銭的ストレスの軽減が育児の質を高めたという経路が示唆されている。現金給付の便益は受給者本人ではなく次世代に最も強く現れる——これは費用便益分析の時間軸を根本から変える発見である。

Iran の全国現金給付(2011)

エネルギー補助金撤廃の補償として、7,000 万人超に個人口座への月次給付を実施した。給付額は中央値世帯所得の約 28〜29%。規模で言えば史上最大の準 UBI でありながら、BI 論では著しく過小評価されている。

Salehi-Isfahani & Mostafavi-Dehzooei(2018, Journal of Development Economics 135)はパネルデータで分析し、労働時間・労働参加への負の効果を認めなかった。女性と、サービス業自営の男性ではむしろ増加している。給付を事業拡大に充てたという解釈だ。負の効果が弱く出たのは、労働市場との結びつきが弱い若年層のみだった。

宝くじ当選者研究

Cesarini et al.(2017, American Economic Review 107(12))はスウェーデンの当選金データ(購入枚数を統制して外生変動を抽出)を用い、生涯限界稼得性向(MPE)を 20 歳で −0.17、60 歳で −0.04、平均約 −0.11 と推定した。既存推定の下限に近い。配偶者より当選者本人の反応が強く、単一世帯労働供給モデルとは整合しない。

2021 年 Child Tax Credit の拡充

ARP による CTC 拡充は、フル還付化によって実質的に就労要件を撤廃し、月次現金給付化した。児童貧困率は記録的水準まで低下している。

雇用効果について、Ananat et al.(2024, Journal of Public Economics 238)は「きわめて小さく、符号も一貫せず、統計的に有意でない」と結論した。就労要件の撤廃が労働供給を減らすという懸念に対する、米国内での直接的な準実験的反証である。

GiveDirectly Kenya——一般均衡と長期性

現在最も重要な進行中の研究群。二つの柱がある。

一般均衡研究(Egger, Haushofer, Miguel, Niehaus, Walker 2022, Econometrica 90(6))は、653 村・10,500 超世帯に一度きり約 1,000 ドルを給付した。移転総額は地域 GDP の 15% 超という巨大なショックである。結果、受給者の消費・資産が大幅に増加し、非受給世帯や企業への正のスピルオーバーが生じ、価格インフレは最小にとどまった。地域財政乗数は 2.5。

「配ると価格が上がるだけだ」という批判に対する、現時点で最強の反証データである。

12 年長期実験(Banerjee, Faye, Krueger, Niehaus, Suri 2023)は、295 村・14,474 世帯を 4 群に無作為配分した——対照 100 村、長期(12 年)44 村、短期(2 年)80 村、一括 71 村。給付は 1 日約 0.75 ドル。

短期結果で目を引くのは、一括給付群が起業と事業収益で最も好成績だったことである(12 年月次群と比べても)。少額の月次給付は消費に溶けるが、まとまった額は資本になる。BI の設計論に直接効く発見だ。この実験は同時に、有限期間バイアスを正面から検証する唯一の設計でもあり、今後数年の追跡結果が最重要データになる。

横断比較

実験給付額期間サンプル設計労働供給効果
NJ NIT貧困線 50–125%3 年1,357 世帯個人 RCT夫は小、妻は中
SIME/DIME貧困線約 115%3–5 年4,800 世帯個人 RCT夫約 9% 減
Gary保証+税率3 年1,780 世帯個人 RCT夫 3–6%、女性世帯主 26–30%
MincomeLICO 60%5 年ドーファン飽和飽和+RCT10 代・母親のみ減
Finland月 560€2 年2,000 人個人 RCT2 年目に約 +6 日
Stockton月 500$2 年125 人個人 RCTFT 就業 28→40%
OpenResearch月 1,000$3 年1,000 人個人 RCT参加 2.0pp 減、週 1.3–1.4h 減
Germany月 1,200€3 年107 人個人 RCT減少なし
India MP月 200–300Rs12–18 か月6,000 人RCT+飽和村自営へ移行
Alaska PFD年約 2,000–3,800$恒久全州民自然実験総就業ゼロ、PT +1.8pp
Cherokee年〜6,000$恒久部族全員自然実験親は不変
Iran世帯所得約 28%恒久7,000 万人自然実験負効果なし
GiveDirectly GE一括 1,000$一回10,500 世帯村飽和 RCT—

系統的レビューとしては、Gibson, Hearty & Craig(2020, Lancet Public Health 5(3))が「BI の定義を厳密に満たす研究は皆無」としつつ、類似介入から出生時体重・母子および成人メンタルヘルスへの強い正の効果を確認している。Marinescu(2018, NBER WP 24337)の米国レビューも同じ方向を向く。

UBS 側の証拠の空白

ここで、政策論争の構造を歪めている非対称に触れておきたい。

ユニバーサル・ベーシック・サービス(UBS)の原典は Portes, Reed, Percy, Moore(2017, UCL Institute for Global Prosperity)である。医療・教育に加えて住居・食・交通・情報を無償普遍サービスとして提供する構想で、英国向けの追加費用を年約 42 億ポンドと試算し、個人課税控除の縮小で賄うとした。Coote らは、公共サービスの拡充のほうが無条件現金給付より貧困・不平等・厚生に効果的だと主張している。

問題は、UBS には RCT がほぼ存在しないことだ。理由は明確で、(1) サービスは本質的に集合的・地域的で個人ランダム化が原理的に困難、(2) すでに制度化されているものが多く「サービスがない状態」という反実仮想を倫理的にも実務的にも作れない。フィンランドのネウボラ、北欧の普遍的保育、英国 NHS は「実施済み UBS」として事例参照されるにとどまる。

実験を読むときの七つの注意点

  1. 飽和設計か個人ランダム化か — 個人 RCT は一般均衡効果を捉えられない。アラスカ・Mincome・GiveDirectly が示すように GE は個人効果を大きく相殺しうるため、個人 RCT の労働供給減は恒久 BI の効果を過大評価する恐れがある。
  2. 期間の有限性 — 逆に、2〜3 年の有限給付を「一時的所得」として扱う受給者は労働供給を減らしすぎない可能性もある。方向は理論的に両義的で、GiveDirectly の 12 年群がこれを直接検証している。
  3. 無条件性・普遍性の欠如 — フィンランドは失業者限定、Stockton・OpenResearch・ドイツは低所得限定。厳密な意味での UBI 実験は存在しない。
  4. 課税側の反応が未測定 — 財源となる課税の労働・貯蓄・投資への反応が、ほぼ全実験で測定されていない。給付側だけを見る「片側実験」は、純厚生効果の評価に致命的な欠落を残す。
  5. Hawthorne 効果・脱落・自己申告バイアス — 観察されていること自体による行動変化、差別的脱落、モバイル時間日誌の信頼性。
  6. 統計的検出力 — ドイツ 107 人、Stockton 125 人。「有意でない」と「効果がゼロ」の混同は初歩的だが頻出する誤りである。
  7. 多重比較 — OpenResearch のように多数のアウトカムを検定する場合、FDR 調整前の探索的サブグループ結果を確証的結果と区別すること。

日本に実験がない理由

日本では、国・自治体いずれのレベルでも本格的な BI/保証所得の社会実験は事実上行われていない。背景として考えられるのは以下である。

  • 既存社会保障(生活保護・年金・児童手当)との整合性論議と制度的複雑性
  • 財政制約と高齢化による社会保障費圧力
  • 「働かざる者食うべからず」的な勤労規範と、生活保護に付随する強いスティグマ
  • 米国型の実験を主導する巨大フィランソロピー資本の不在
  • そもそも対照群を伴う政策評価の文化が弱いこと

2020 年の特別定額給付金(一律 10 万円)は、普遍・一括給付の準実験的分析の対象になりうる。ただし期間・反復性の点で恒久 BI の代理としては限界がある。実務的には、まずこの事後分析を先行させて行政データ連携基盤と評価文化を作り、そのうえで過疎地域一つを丸ごと対象とするドーファン型の飽和パイロットを、ドイツ型の「既存給付を減額しない設計」で試すのが現実的な順序だろう。

残された問い

半世紀の実験群が明らかにしたのは、おおよそ次のことである。労働供給への効果は小さく、恒久・普遍設計ではほぼ消える。健康・子ども・精神的厚生への便益は頑健で、特に次世代への効果が大きい。一括給付は月次給付より資本形成に向く。そして地域全体への給付は財政乗数を通じて経済を潤す。

だが、最も重要な問いには誰も答えていない。

「実験でうまくいった」という主張の射程は、思われているよりずっと狭い。逆に反対派が「実験で就労が減った」と言う場合も、税制設計次第でその効果は変わりうる。実験は制度の給付側だけを照らす片側の光であり、BI の是非は最終的に、実証ではなく制度設計と分配の規範の問題として残り続ける。

だとすれば、次に問うべきは「BI は効くか」ではなく、「BI で何を置き換えるか」である。医療・介護という現物給付の巨大な塊が置き換え不能である以上、この問いは UBS との対立軸に必然的に回帰する。実験が答えを出せないのは、そこが実験の外にあるからだ。